20年近く購読してきた新聞を止めてみた。この論調、この目線が自分に必要なものかどうか?という疑問に対しての判断。
求める情報を与えてくれるいわゆるメディアは少なくなった。多くの人が(自分も含め)発信できる世の中になればなるほど、
お金を払ってまで得たい情報というのは、意識しなくては得られない世の中にもなってきた。
新聞をとっていたのは、新聞屋さんのご苦労に敬意を表してきたから。そこは変わらないが、今回は心苦しい、申し訳ない気持ちで断った。その新聞なしで1か月生活できるか?のテスト月間でもある。ちょっと狭い世界や上から目線的な記事に違和感を覚えたり、飽きを感じたのかもしれない。もちろん好きな文化欄はあったけれど・・。
毎朝4時すぎに届けられる、あの配達音で朝の訪れを感じ、まずそれを見る。という1日のはじまりはなかなか格別であるが、今しばらくは別のスタイルに。
小さなことであるが、自分の中の小さな習慣を変えていくことで、何か内面がすっきりしたり、新たなものが見えてきたりもする。新聞はネットでも見ることができ、BSで世界中のニュースを簡単に見聞することもできるが、やっぱりあの大きな紙を広げて読む楽しみは大切にしたい。そういえば、大昔、新入社員の仕事は各新聞のスクラップだった。あれが仕事だったとは贅沢な話だ。
今はコンビニや駅を活用し、毎日違う新聞を読む、日によっては複数種類読む。それもいいかもしれない。今、実は一番面白いと思うのは、地元紙だ。
その町に行き、その町のライブな話題を知るのが良い。そういう意味で、出張先では常に地域紙を読む。
と、こんな具合に、ひとつひとつ気になっていることを整理し、次への準備体制を整えていくのが春を迎えるということなのかもしれない。
ひとつ、ひとつ改める春
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