便利な世の中になればなるほど、欲しいモノ、情報すぐ手に入る代わりに、人はだんだん考えることをしなくなるような気がする。
すでに制作したザビエルの歴史や影響を今さらのように調べたくなり、久しぶりにネットを断ち、読書する時間が必要だと思うようになる。あるいは騒音のない静かな空間で瞑想するのも大変有効だと感じる。
たとえば、遠藤周作が残した数々のキリスト教に関する書物。信者でないという理由から若い時代は読まなかったが、長崎やポルトガルに興味を持ち始めてから問題意識をもって
それに関する情報が欲しくなった。しかもネットで簡単に検索できる情報ではなく、深い意図をもって練りに練って表現されたその描写に触れたいと思うのだ。
そして、緻密な取材、調査にもとづき描かれているであろう、キリスト教弾圧の数々の場面を読むにつれ、現代社会が今まさに争っている世界と重なって見えてくるものがあり、
信仰とは、神とはいったい人間にとって何の意味があるのか?ということをいやおうなしに考えさせられる。文字、言葉で綴られたその描写があまりに残酷で、でもそこを読まなければ日本人がやってきた惨たらしい過去の蛮行に触れる機会もない。意識がなければ、そのことを知る由もなく、単に見た目の情報だけで人は浮遊するようになる。
書物は大切だ。もっとももっと大切なのは現場を見聞きすること、現場を知っている人から聞くことも有効であるが、その経験は限定的であるから、時間空間を越えて多くの学びをくれる書物は大切にしなければならない。
想像力が欠如する、あるいは減退しているのが現代社会だ。想像力があると創造ができる。制作もできる。どうかこの短絡的で直線的すぎる世の中ではなく、もっと想像することを楽しめる暮らし・・。もっと本を読もう。できればペラ、ぺらっと1枚づつページを捲りながら、紙に向かう時間。
それにしても、言葉、文字だけで人間はさまざまな世界を表現できるものだ。音楽も然り。想像力をもっともっと養おう。その究極は妄想かもしれないが、プラスの妄想は歓迎すべきものだと思う。
文字や言葉で想像する力を
カテゴリー: Essay (Word) パーマリンク