ふりかえると、子どもの頃は、親以外のいろんな大人にも大変
お世話になった。
子ども会という活動も、今思えば本当にありがたい遊びと交流の
時間。合唱団の活動もそうだ。毎週 練習に出かけて、たまに
演奏活動にも出かけた。一番の思い出は東京は澁谷に出かけ、
NHKの番組に出演したこと・・・・。
その活動には、いつも親たちの応援やサポートがあった。
共働きが少なかった時代、お母さんたちが本当に熱心に
お世話してくれたし、お父さんも同じ。週末は地域の祭りや
子どものスポーツの活動に時間を割いてくれた。
親たちのご尽力は、今も変わらない。
週末になると、少年野球につきっきりのお父さんたちのお話も
聞くので、やる内容は違えども、親たちは今も昔も、昼夜を
曜日を越えて、子どもたちに寄り添い、付き添ってくれる。
塾へ通く子も多い最近は、どの程度、子どもたちが外で活動
しているかわからないが、こういった取り組みは親にとっても
子にとっても一生の思い出になるだろう。
今日もおそらく、熱い中、練習や試合、大会と忙しい家族も
多いことだろう。
わが子ども時代をふりかえると、会いたくなるひとりのおじさんがいる。
親よりも年上であったし、もうご存命ではないと思う。消息は
もうわからない。
その方は最初は、子ども会で知り合った。子ども会の役員を
されていたのだろうか。
お仕事は町工場を自営されていたが、子どもたちの育成にも本当に
熱心な方であり、また優しくて、面倒見がよくて、小学生の
私にとっては、大好きなおじちゃんであった。
今も忘れられない遊びがある。
それは、新聞紙で行うファッションショー。
新聞紙で洋服をつくり、それをモデルに着せて、最後はファッションショー。
そんなお金のかからない、遊びを私たちに教えてくれた。
そのファッションショーは地元の公民館で練習し、学校の体育館で
本番。その後、岐阜市の子供会のイベントでもご披露し、新聞にも掲載。
その指導をしてくれたのが、そのおじちゃんである。
他にもバナナを使ったマジックなど、楽しい遊びをいろいろ教えてくれた。
その後も、そのおじちゃんが仕事で大阪へ納品に行くと聞き、トラックに乗せて
もらって、大阪の住吉神社で下ろしてもらい、おじちゃんが仕事を終えるまで
大阪でひとり遊び、帰りも大阪の梅田だったかで拾ってもらい、岐阜まで
またトラックで・・・。これが人生初の大阪トリップであった。
ひとりで遊ぶ大阪は、あまりに大都会で、テレビで見ていた世界はより
エキサイティングな町であった。
おじちゃんは、いつも私に新たな世界を見せてくれた。
おじちゃんは自宅で自営業をされていたから、お昼は家で食事をされていた。
あるとき、お昼にお邪魔したとき、おじちゃんは自分でキャベツの千切りを
つくり、ご飯と一緒に食べておられた。美味しそうに食べておられたので、
その時のキャベツがご馳走に見えた。何をかけて食べていたのかは忘れたが。
と、小学時代の私のおじちゃんの思い出。
大人になってからも、会っておけばよかった。と強く思う。
今、新聞を手にもつ時、キャベツを刻むとき、そして大阪の町のはずれに
立つとき・・・そのおじちゃんとの小さな思い出がよみがえる。
親以外の大人が教えてくれたことはたくさんある。
あのおじちゃんは、いつも「まあちゃん、まあちゃん」と優しく
してくださった。親の良き友達でもあった。
今、空の上で、会っているといい。
町工場を営みながら、地域のことにも積極的で・・・。
そんな一人の男性の人生を、今 私なりになぞっている。
感謝をしたい人のひとりだ。
新聞紙のファッションショー。今でも子どもたちに教えたら、
きっと大うけするだろう。
お金をかけずに、楽しく遊んだ時代。
交流がいっぱいあった時代。
あの頃は、
手のひらサイズのうつむき時間より、幸せがいっぱいあった。
そんな気がしている。
あのおじちゃんに会いたくなる時。
マイノリティの誇り。
最近、ある企業での社員面談をしていて、ある人が
「多数決って好きじゃないんですよね。多ければ正しいという
のは違っていると思うから。だから、自分は少数派なんです」
という声を聴いて、思わず、顔がほころんだ。
ああ、こういう人もいるのだ。
私も、まったく同じだ。
「それでいいと思う。みんな違っていい。それぞれ違うのがいい。
自分の考えはちゃんと持っていないといけないし、お互いの違いを
尊重しなければ。そうすることで、自分が気づいていないことも
気づけるし、世界も広がるし。自分はマイノリティどころか、オンリーワン
と思っている」
と、そんな会話が続いた。
自分も多数決については、疑問がある。数の力は正しいとは言えないことも
ある。違う考えを交換しながら、お互いのことを知り、歩み寄ったり、
調整しながらより良い方向にしていくことが大切だと思っている。
また、「みんな」と一括りにしても、同じではない。
ある利害だけが一致しているかもしれない。
よく考えれば、「みんな」という存在は不確実だ。
ふと、子どもの頃を思い出す。
「みんながやっていることをやっていれば、いいんだ。
10人中9人がやっていることをやっていればいい」
父との口論はここから始まることが多かった。
そこだけは受け入れることができなかった、生意気な子どもであった。
ふと、父の保守的な面への反発が自分の自我の形成に
つながったのかもしれない。
今も、あの頃と変わらず、多数派に交わらないことを良しと
している。
そんなことで、今も、世代を超えて、
共感できる生き方をしている人に出会えることはうれしい。
その、少数派と自認する彼は、今、一生懸命、次の世代の育成に
励んでいる。自分で考えて自分で答えをみつけ、生きることを
教えている。
マイノリティだからこそ、新しい発想ができ、創造ができる。
共感できる若者に出会うことで、なんだか自分も勇気が湧いて
きた。
AIへの危機意識と。
先日長崎でお世話になっている方との会話から、
今のローマ法王は、周囲の声を聞きながら、慎重に発言される方
とのことを聞き、勝手に親近感を抱いた。
戦争にはとことん反対、世界平和の必要性を力強くメッセージ
されており、当たり前のことといえば、そうであるが、間違って
いることは間違っている、と言う人は今の社会には必要だ。
そんな期待のなか、今回、「AIの武装解除を」と発信されており
これにも深く共鳴した。
AIが戦争を仕組んだり、人命を脅かす世の中になってはいけない。
そのための対処を正しく行う必要性を説いておられる。
最近、とても気になっていることであったため、ローマ法王自らが
世界に向け、このことを発信されたことは本当に意義深いと感じた。
このままでは、AIにより世界が崩壊することもある。
他人事ではない。
先日は生成AIが引き金となって、お騒がせとなった話題もあった。
何でもAIに相談することが、極端な行動につながり、思わぬ結果
を招く。という一例であると思うが、AIにより家庭が崩壊する、
人生が崩壊する。ということもあるという実例だ。
AIに人間が振り回されないように。
使い方、関わり方のルールづくりも必要だ。
以前も触れたがAIに倫理や哲学を教え込んでいる会社もある。
人間ファーストであるために、こういった努力も不可欠だ。
今こそ、AIの武装解除を。
この言葉を他人事と思わず、今こそ、AIの使い方、関わり方に
ついて、考えたい。
これからも法王様には、世界へ平和のメッセージを発信し続けて
いただきたい。そのことで気づける人も多くいると思うから。
少しでも良い方向を目指す挑戦。
仲間が主宰する劇団の作品に共演したことがきっかけで
知り合った演劇人。
その時は、朗読劇であったが、
役者として素敵な語りをご披露いただき、こちらは生演奏で
という共演。
そんな出会いであったので、最初、役者さんだと思っていたら、
なんと作家であり、監督であり、劇団主宰者でもあり、びっくり!
どんな作品を書かれるんだろう、興味は一気に高まった。
出会った頃は、まだコロナ禍の名残もあり、
演劇自体は、オンラインでの公演ということも多かった。
オンラインは遠くにいても、視聴できるからある意味都合が良い。
場所を選ばず、見れる環境で視聴し、応援していた。
そして、最近は劇場での公演もすっかり復活し、
都内の劇場にも出かけるようになった。
毎回ドキドキなテーマで、熱いステージを観ながら
いろいろ考えさせられ、大いに刺激をいただいてきた。
この方の作品にはメッセージがある。
世の中に対する、強い思いがある。
世の中を正しくみつめ、より良い方向に進んでいかねば
という意志を感じる。
でも、決して、理屈っぽくなく、どこか肩の力が抜けつつ、
でも、シャープな切り口。
少しジャーナリスト的でもあるが、表現は演劇。
だからわかりやすく、伝わる。
面白おかしく、でも考えさせられるし、泣けてくる。
どこにでもありそうな、物語。
として、敷居を低くしながら観客をしっかり伝えたい世界へ
導く。
昨年は終戦80年にふさわしい作品。そして、今回は
「分断」をテーマにした作品。
タイトルと見ただけで、ああ、それが言いたいのね。とすぐ
わかる。
その公演が無事終わったとお礼メッセージをいただく。
「演劇でやれることは微力で限られていますが、
デタラメが横行する今の政治情勢の中で、
少しでも社会を動かすきっかけになれば良いなあと思っています。」
とのこと。心から共感する。そのことがよく伝わる作品であった。
いろんな行動がある、表現がある。
自分ができることで、少しでも社会を動かすきっかけが
できたら、それぞれが自分でできることをはじめたら、
世の中はきっと良くなる。
私も強くそう信じている。
演劇でも、音楽でも、文学でも・・・・。
発信すること、表現することで、周りに思いの灯が付けばよい。
人を変えるきっかけになる仕事は、本当に素晴らしい。
次に出てくる作品も楽しみにしている。
今回の上演、大変お疲れさまでした。
劇団チャリT企画/TOP
出会いは出会いを生む。素敵な人との出会いの連鎖で、
わが人生は、とても幸せ。おかげさまである。
チラシ文化は、これからも。
チラシ・・・もともとは、英語ではFLYER(フライヤー)から
きていると若き日に学んだことがある。
空を飛ぶツール、散らすように、ばらまく。
直接、受け手に送り届ける、受け手が手にとる情報媒体。
これは新聞記事とは違って、広告主本人が作成するもので
あるので、もう一人(一枚)の営業マンでもある。
もっとも、今ではチラシとフライヤーは見た目で区別?
されているようで、デザイン性高いものをフライヤーと
読んでいるようであが、いずれにせよ、作り手の想いや
商品、サービス情報が印刷されているツール。
新聞折り込みチラシも、この時代には新聞購読者が減り、
購読層も高齢化のため、種類も数量も減少傾向。
そんな寂しいチラシ業界であるが、今なお、健在なのは
演劇業界や音楽業界の公演チラシ。
劇場に行くと、受付時に当日のプログラム以外に、数多くの公演
チラシを渡される。もしくはすでにアンケートとともに、各座席に
セットされている。
ずっしりと重い、チラシの束。
公演が始まるまでの間の時間つぶしに、または持ち帰ってから
ゆっくり見る。
(個人的にはこうしている)
この公演チラシは、劇団にとって大変重要である。
私の仲間の劇団主催者も、公演が決まると会場押さえなどと
同時進行でチラシの制作に注力する。告知、集客には不可欠な
ツールである。
印刷したものを配り、サイトでも公開するハイブリッドなチラシは
大変有効である。
演目、それを補強して伝えるキャッチコピーにサブ、リード・・・。
そして、メインビジュアル。
おそらくコピーは主催者や作家自身が考案し、デザインはデザイナー
に依頼。お抱えのデザイナーなどであれば、劇団のことも理解して
おり、意図が伝わりやすく、劇団のツールとしての統一感も出せる
というメリットもあるかもしれない。
とにかく、主催者、作家の思いが詰まった1枚。
この1枚が集客にも大きな影響をもたらす。
チラシ1枚できるまでも大変といつも思いながら、できあがると
なるほど。本番の劇が楽しみになってくる。想像をかきたてられる。
コンサートのチラシは、すでに曲名や演奏者で想像ができる
ため、読ませるところは少ないが、演劇はほとんどが創作である
ので、チラシでの発信はより貴重。
今回も、東京から持ち帰り、じっくり1枚1枚を見る。
デザインや色も参考にしながら、ささるコピー、タイトルを
探す。
チラシ文化が残っているこの業界がとても好きだ。
演劇自体がもっともアナログ的芸術であるため、チラシとの
相性も良いのだろう。
1枚1枚のチラシをめくり、次はどれを見るか。
そんなことを考える楽しみを与えてくれる。
時には、作り手の思いを、じっくり味わう。
そんな紙コミュニケーションに親しみたい。
やりたいことをやる、が一番。
この週末は、知人が手掛ける劇団の公演や、いわゆる噺家や芸人の
皆さんのステージをいくつか観る機会をいただき、多くの「もうひとつの
人生」「現実にはありそうでなさそうな物語」を連続して見せて
いただき、刺激を受けた。
演劇でも、落語でも、歌でも、神楽でも、現実とは異なる
架空の物語が表現される。
言葉を聞きながら、演技を見ながら、音や声をききながら、
現実世界とは違う、もうひとつの世界を旅する時間。
想像力を働かせながら、見知らぬ世界を体験できるとは、
人間に与えられた宝物、贅沢なことだ。
時代を経て、その表現方法が変わっても、もうひとつの
非現実の世界を楽しむ娯楽はなくならない。
そのニーズはなくならないから・・・。
誰もが一度の人生を、より豊かに生きたい。
リベラルアーツの世界には、それを充足させてくれる
無限の可能性がある。
作家も役者も舞台担当も、演出者も、すべて、想像の世界の
表現に全力投球する。
そして、何らかのメッセージをそこに込める。
表現の自由が赦される世界とは、なんと幸せだとも
改めて感じる。
今回、ステージを観ながら作家も役者も、そして噺家、
紙切り芸人、歌手・・いろんな芸人、表現を目の当たりにしながら
今の瞬間、観客に向かって全力投球されている姿に感動。
もちろん表に見えない裏方の皆さんの働きにも・・・。
それぞれが今日の瞬間にために努力されてきているのだと思うと、
思わず、じんときた。
見えない努力があっての本番だ・・・。
しんどくても、努力を続けることができるのは、
自分のやりたいことだから・・・であろう。
どうせならば、自分がやりたいことで、努力をしたい。
やりたくない人生を無理していきるのは、もったいない。
やりたいことをやり続けている人を見ると、勇気や元気を
いただける。
目に見えない世界をつくり続ける仕事は、
生みの苦しみもあれば、さまざまな制約もあるが、
それを誰かに見てもらい、共感、感動してもらえたら、
最高に幸せ。
つくりたい人、演じたい人、歌いたい人、かきたい人は
とことんやればいい。と改めて思った。
自分は?
改めて自らに問う。
やりたいことをやり続けよう。
すると、きっといい顔になってくるし、心も澄んでくる。
そして、
悔いのない人生になる。
時々、挑戦する人に刺激を受け、自分も新たな挑戦に。
もちろん、やりたいこととは、やりたい放題とか、
人に迷惑をかけたり、傷つけてまで無理に行動する
こととは対極のこと。
それはやってはいけない。
ロマンと説得力を学んだ日々。
20代の頃から、お世話になっていたマーケティングの
国際組織MCEI。
実務家たちの学びと交流の場として、国内は東京と大阪、
そして海外では台北。そしてEU、オーストラリアにも
そのネットワークを持っていた。
ニューヨークにルーツをもつ組織。1954年に活動が始まっ
たというから、すでに70余年の歴史。
この由緒あるネットワークの一員として学ばせていただいた
経験は、今日の自分にも大変役立っており、感謝しかない。
ここで出会った方たちとのおかげで、現在の自分がある。
素敵な先生、経営者、自分と同じく実務を担うマーケッター・・・。
いろんな出会いがあった。そこからチャンスも広がった。
約60年前に、このアメリカ生まれの最先端の活動を日本に持ち
込んでくださったのがマーケティングの実務家たちの「師匠」
であり続けた水口建次先生。
もうお会いすることはできないけれど、多くのメンバーが
今も、水口先生のことを尊敬し、いただいた叱咤激励を胸に
頑張り続けている人も多い。もっとも定年された方たちも
増えてきたが・・・。
久しぶりにこの会が発行する会員たちの執筆による提言集を
読み、マーケッターを目指していた若き日の自分を思い出し、
時代は変わっても、常に世の中には、多様な市場が生まれ、
そこに向けてのマーケティングが存在し、それを担う
マーケッターがいることに改めて興味を抱いた。
何を扱うかにより、その人が見る世界は違うけれども、
普遍なる課題がある。
それを一緒に語り合って、ヒントにしていた時代。
そんな場をつくってくださったのが、水口先生だった。
とにかく、ロマンがあり、使う言葉にセンスがあり、
そして説得力があった。
その話を聞けば業界を越えて、みんながそうだ!と
共感できるメッセージがあった。
毎回、それを聞くのが楽しみで勉強会に
多くの人が集まった。話し方も、出てくるワードも
聞く人の心をわしづかみにし、共感と勇気を与えた。
それは先生自身が、抽象的思考力をもっておられた
からなのだろう。業種業界が違っても、多くの人が
感動し、共感し、そこから再出発した。
当時20代だった私は、マーケッターとしてはヒヨッコ。
それでも、説得力ある言葉を浴びながら、
なんだか、わかったような気持になって、
高揚感をもって、走り続けたあの頃。
ロマンと説得力。
学んでいた当時は気づかなかったけれど、
今になったら、それを学んでいたことに気づかされる。
仕事にはロマンが必要だ。いいかえれば夢。
そして、それをやるんだ!
やるんだという気にさせる説得力。
伝える仕事にはそれが不可欠だ。
そんな熱い人に最近出会うことが少なくなった。
今、先生は空の上から、今の世界を、日本をどう見ているだろう。
と、共通の仲間との話題から、先生のことを
久しぶりに思い出した。
「今尾、がんばっとるか?」
ヒヨッコであった自分は、よく言われたなあ。
「はい、おかげさまで!」
今の自分なら、先生とまともに会話ができるだろうか。
今一度、「マーケティング戦略の実際」を読み直したくなった。
抽象的思考力をもつ人に。
尊敬する人、おつきあいを続けたい人は、学び続け、つねに
抽象的に物事をとらえることができ、世界を見続けることができ、
具体的に適切な判断、行動ができる人である。
自分があんな人になりたい。と思わせてくれる人とのおつきあいを
深めたいし、高めたい。
増やしたいとは思わない。
尊敬する人は、そんなに大勢はいらない。
ある経営者の方とは、約四半世紀のおつきあいになるが、
とても気が合う。と勝手に思っている。
最初の出会いから、Mozartの話で盛り上がり、その後も
学生時代に岩波文庫でお馴染みであった哲学者や思想家、
音楽家の話題がどんどん出て、お会いすると時間を忘れる
ほどに語ったし、自分が知らない言葉や考えをいろいろ
教えてくださった。ビジネスマンにも哲学や芸術は役立つ
ということも気づかせてくれた、ありがたき存在だ。
在る時、なぜ、いろんなことをそんなにご存じなのかと
興味をもってたずねると、こんな答えが返ってきた。
「いろいろ読んできて、「抽象的思考力」をもたない経営者は、
お客さんから共感、支持され、成長する企業をつくることは
できないことを知りました。
その「抽象的思考力」を高めるためには、抽象的な物事の
考え方が必要でそれを養うには、リベラル・アーツ(音楽・哲学・
文学などの教養)を身につける必要があるということもわかって
きたのです・・・」
なるほど。とても深く共感した。だから、ずっと勉強を続けて
おられるのだ。だから話していても話題が尽きず、学びも多い。
流行り事だけでなく、普遍なるものを求め続け、自らの考えを磨いていくこと。
それが経営者として大切な道なのだ。
この社長はいろんなことをご存じであっても、決して偉ぶらず、
本当に謙虚でユーモアがあって、心のゆとりがあるように見える。
苦しい時、悩むときは、まさにリベラル・アーツの力も借り、
心を開放されることもあるのだろう。
そして、それがまた血となり、肉となり・・・。良き循環の中で
充足した日々を過ごしておられるのだろう。
理想的な年の重ね方をされていると思う。
こんな方と時々やりとりをしながら、もっと知的であれ。と
自らの背中を押す。
大きな組織を担う経営者でなくても、自力で心豊かに生きていくためには、
抽象的思考力は、ますます必要になると実感する。
だから、もっと学び、もっと知ろう。
知的な会話ができる人になりたいし、
自分より教養のある方に、相手にしていただけるように
努力しなければならない。
人生、貴重な時間を使うなら、意味のある会話をしたい。
そして、尊敬する方との時間を大切にしたい。
そして、若い人に、そんなことが伝えていけるように
なりたい。
抽象的思考力・・音楽を続けていて良かった。少しは役に立ちそうだ。
対話でなんとかなりませんか?
どうしたら、みんなが平和で暮らせるのか?
そのことについて、しっかり考えたいときは、長崎に出向く。
いや、出向くと、自然と心がそっちの方に向くという
のも正しい。
出向けないときは、そっちのことを思って見るだけでもいい。
だから、長崎には何度も訪ねたくなる、現地の人たちに
会いたくなる。そんな心のよりどころ。
つらい経験を重ね、被害を受けては立ち直って
きた人にとって、平和の希求は、息をすることと
同じぐらい、当たり前のことだろう。
痛い思いをしたからこそ、痛みがわかり、
それを乗り越えたことに感謝できるのだと思う。
そこには、神様の存在もあるのだろう。
九州の人は優しい。長崎ももちろん優しい。だから大好き。
昨日、有る会話のなかで、そんな声をきいた。
確かにそうかもしれない。
とくに、自分が知る長崎の人は、言葉は少なげであるが、
本当に優しく、あたたかい。
敵ではないかと思える人のことも赦し、相手を包み込む。
そんな力がある。寛容であり、慈悲の心があふれている。
だから、暴力でもって解決を図るという間違った選択は
なく、話し合いで乗り越える。
よく話し合えば、痛い思いもせず、相手への理解も深まりながら
解決もする。
もっと、対話をしよう。
長崎の人を思い出しながら、このコミュニケーションを欠かさず
丁寧に生きていかねばと改めて思う次第。
最近の「対話ではなく一方的であり、ご都合主義な方のふるまい」を
知ると、絶望するが、世界には、そんな人ばかりではないと
信じ、対話ある日々を大切に生きたいと改めて思う。
対話でなんとかなる。
全ての関係をそこから、はじめたい。
色なき売り場が想像できるか
大手メーカーが商品パッケージをモノクロにするというニュースは
余りに衝撃で、いかに今回の中東危機が恐ろしいことになりそうか
について、多くの人が改めて感じ、考えるきっかけになっているのでは
と思う。
この2~3日、会う人会う人と話しても、必ずこの話題になる。
たまたま乗ったタクシーのドライバーさんも、今回のことで、
大変困っておられる様子であった。もう客足が遠のいているとのこと。
とくに経営者の利用変化が著しいとのこと。
先が見えないから、会食もしない。タクシーも乗らない・・とのこと。
「わたしたちの仕事は景気のバロメーターですから」
と語られた言葉が、ずっと頭から離れない。
この先の景気の後退は明らかである。情勢を見越して、
業績予想を立て、公表したとたん
株価に影響が出たという例も少なくない。
ある人からは、コロナ以上に深刻な事態になる。とも言われた。
コロナのときは、人との距離、コミュニケーションの取り方が
大きな問題であった。
今回は、モノがつくれない、というこれまでにない経験。
モノが売れないのではなく、原料がないから作れない、仕事ができない
ということだ。
包材関係や原材料に関わる業界は本当に深刻だ。
お菓子のパッケージがもしも、全部モノクロになったら・・と
思わず想像してしまった。
売り場は、カラフルな色があってこそ、購買意欲を搔き立てられる。
色なき世界は・・・・。
視覚でイメージを掻き立てられ、楽しそう、美味しそうと思って
商品に手が伸びる・・・。カラーの中にモノクロがあれば、それはそれで
映えるのだけれど、全部がモノクロでは・・・。
昔の映画じゃあるまいに・・・。
まさか、売り場がモノクロの世界になるとは 信じたくないけれど、
もちろん、モノトーンを売りにしているブランドもあるけれど、それは
意図的なクリエーションであって、
やむなきノーカラーとは意味が違う。
タクシーのドライバーさんの悲痛が耳から離れず、なんとか1日も早く
安心して仕事ができる状況に戻ることを祈りたい。
工夫して現状を乗り切って、いきいきした世界を取り戻さねば・・・。