3月11日をきっかけに、あの震災後、今もその傷跡をそのままに
生きているさまざまな人の様子を報道で知ると、胸が痛む。
時間が経つと、人は忘れていく。
当時、毎日、毎時取り上げていた報道も、だんだん話題にしなく
なるため、日々の暮らしに接点がなかったり、人のつながりが
なければ、だんだん忘れていく。そんなものだといえば、確かに
そうだ。
でも被災した方々や、仲間を亡くした方にとっては、生涯忘れる
ことができない。
忘れないためにも、あれから何年・・と振り返ることは意味が
ある。
今朝も福島で、もう食用にはできない牛たちの世話を続けている
牛飼いの方のインタビューに接し、この方にとって牛とは
家族なんだと思うと、胸がいっぱいになった。
歳月が流れることで、世間は忘れていく。でも、実際にそこに
暮らし、生きている人々にとって、忘れることはできないどころか
ずっとその悪夢を引きずりながら生きていかねばならず、
その苦労は言葉にならないだろう。
その立場にならないと、本当の苦しみは理解できないのが
申し訳ない気持にもなる。
今、改めて、「自分ごと」の難しさを考える。
苦しんでいる人、悩んでいる人、いろんな人に接するとき
あるいは仕事をする上でも、「自分ごと」を大切にしたいと、
その人だったらどうだろう、こうしたら楽になれるか?
など思うようにする。そして、少しでも寄り添ってその人の心を開き、
応援や時に助言、ときに伴走できたらと思って生きている
けれど、現実的に限界はある。
その人に代わって、生きることまではできないから。
あくまでも、自分は自分を生きるしかなく、
周囲の人々へは、想像力と思いやりを働かせ、
少しでもと思って少々の気遣いや応援をする・・ぐらい
しかできないのが現実だ。
でも、自分ごとにする という意識はとても重要で、
こういう人もいる、こういうこともある。
自分ならどうするだろう?
と、常に相手のことを気にかけ、一緒に悩んだり、
相談にのったりすることぐらいはできる。
できることからでいい、周囲への思いやり、気づきを
増やしていこう。
それが、自分にできる「自分ごと」である。
対極にある「他人ごと」な生き方が増える社会に
警鐘の意味も込めて・・・。



