良きアメリカの復活へ

中間選挙の結果は、無事に結果が出つつあるようで、安堵している。

やはり、アメリカは民主主義の国のはず。
ひとりひとりが自由で、夢をもって生きられなければ、少なくとも
私が25歳で世界に目覚めたアメリカではない。

アメリカンドリームに憧れた世界中の人々。
この移民の力でアメリカは成長した。
とくにNYはその象徴的な存在。
違う人種、性別、宗教・・・それそれを許容しながら
個々を大切に、共に生きる町。
それが憧れの国。アメリカ・・・・・だった。

でも、しばらくその土地を踏むこともためらわれて、現在のアメリカに
には行けていない。

久しぶりに、アメリカがノーマルな国に戻った気がする。
国民は目覚めた、気づいた、動き出した。
分断ではなく、「愛」をとく政治家が誕生したことも良きこと。
久しぶりにアメリカの報道に接し、ほっとした瞬間だ。

ひとりひとりが安心して生きられるように。

民主主義が生きていた。本当に良かった。
でも、油断してはいけない。
以前とは違う、変わりすぎた世界のなかで、
この力を取り戻せるか?
でも、まずは良かった。

カテゴリー: Essay (Word) | 良きアメリカの復活へ はコメントを受け付けていません

好循環と観覧車。

つい最近、社長歴30余年(もっとかもしれない)の経営者と
ご一緒する機会があり、時間が経つのを忘れ、仕事=人生、
そして人間、社会についてのさまざまな見方、
そして人生の価値観について、聴かせていただいた。

その方とは久しぶりの長時間セッションとなったが、
最初の出会いで、この社長は!と思った瞬間のことを
思い出した。
30年以上前、最初の会話で、Mozartの話をされたのだ。
経営者でそんな話をしてくる人は、とくにマーケティング
の勉強会の席でそんな人は、見たことがなかった。
そんなこともあって、強く印象に残っていた。
経営者には、豊かなそして鋭い感性が必要なのだと
そのとき、感じたが、今もそう思っている。

さて、その社長さんとの今回の会話でとても強く
印象に残ったのは、
「すべては好循環のために。それを目指している」
それを聴いて、とっさに、わが「グラン・ルー」の
「人生は観覧車のように」の考え方と共通していると
思った。
その社長は、ビジネス、経営という視点から好循環と
言われたが、私は仕事で関わる人々が観覧車のように
回り続けることも目指しているから、まさに
同じことを目指していると、教養や経験のレベルの差は
あれど、生きる価値観が同じであることを、とてもうれ
しく思った。

人生は観覧車のように。いいかえれば、世の中が良い
循環に恵まれ、ひとりひとりが笑顔で、幸せになれる
ように。

ご縁をいただいた方とコミュニケーションをしっかり
とることで、表現は違えど目指すもの、価値観が見え
てきて、自分の考え、思いと通ずるところがあると、
生きていることが嬉しくなる。
自分は間違っていないと思えてくるのだ。

好循環。どうしたらうまく回るか、みんなで知恵を
出し合い、回し、周り続けよう。

本当は地球全体が好循環であればよいが・・・。

好循環になるための潤滑油。それがもしかしたら、
コミュニケーションクリエイターの役割かも。

刺激をいただき、気づきをいただき、新たな勇気も
湧いてくるありがたいセッションであった。

尊敬する人、共感する人、愛する人とのかけがえの
ない時間を大切にしたい。

カテゴリー: Essay (Word) | 好循環と観覧車。 はコメントを受け付けていません

轟音で一変!

雨が上がって、遂に実家の庭の木を伐採。
業者さんが来られるまでに、実家近くの墓に行き両親に
「木を切るので、よろしく」と報告をして、再び実家に
戻り、何度も何度もハナミズキやもみじを見上げ、撮影。
その後、二階のベランダから、もう一度一階から、いろ
んな角度から見納めだ~と一人でしんみり・・・。

やがて雨が上がり、トラックがやってきた。音で覚悟が
決まった。
業者さん登場!伐採した木を入れるトラックが3台も・・・。
スタッフも数名、外国人のスタッフも。これは一大事!
責任者とはすでに打合せしていたので、「じゃ、始めさせて
いただきます」の挨拶とともに、伐採スタート。
「グイ~~ン、グィ~~ン」
高音で脳みそに突き刺さりそうな、スゴイ音がし始めた。
今思い出して、文字で表現するのが難しいほどのインパクト。
とにかくすごい音で、近所中に鳴り響いた。
何事が始まったと注目を集めそうだ。
現場はお構いなしに、轟音を鳴らし続け、ばっさばっさと
木がなくなっていく。大将が木を切る、スタッフがすぐ運搬。
作業中は怖い感じがして、見ないでじっと室内にこもっていた。

この高音がしばらく続き、音がやんだ。
勇気をもって、二階のベランダからそっと庭を見る。
と、もう大きな木たちがなくなっていた。
仕事速いなあ~。余韻はない。
あるのは切り株とおがくず・・・。
そして、木の香りがした。

さっきまで、大きな木がなくなるのを惜しみ、後悔しないか
と思っていたのに、あの大きな音で目が覚めた。
もうない。
木はなくなったけれども、それでも庭はそのままだ。
「すっきりした」という感じだ。

あれよあれよという間に作業自体は2時間もかからず完了。
半日以上かかるかと思っていたが、プロの仕事は速い。

この業者さんは、伐採専門ではなく解体業もされている。
家の解体とともに、遺品整理までもされるとか・・・。

「自分で何かをしようとすると、感情が入って進まないです。
第三者がやれば感情なしに、仕事としてやるから速いんです。」
確かに。説得力あるわ~。
今回の木の伐採は、遺品整理に似ている。
親が大切にしていたもの、一緒に暮らしていたものを、
処分するわけだから。

作業が終わって、3台のトラックが伐採した木々を
入れ、走り去ったとき、仕事がひとつ終わった気がした。

あのチェーンソーの音が目を覚ませてくれた。
いやはや、何とも言えない忘れられない1日となった。

両親の旅立ちから5年。ここで次のステップへ。
その間庭の手入れをしてくれている叔父が気になって
現場に駆け付け、見守ってくれたことも感慨深い。
「木がなくなって、寂しい?」
「ううん。いいやん、すっきりして」
この言葉にも救われた。

もう今年から枯葉の始末をしなくてよい‥。
昨年までがんばってきた自分にも、
お疲れさま。

これからもひとつづつ、処理を進める。
これも終活の1ステップだ。

今もあの轟音が脳裏から離れない。

カテゴリー: Essay (Word) | 轟音で一変! はコメントを受け付けていません

「ごめんね」を「ありがとう」に。

今日は普段と違う朝。ちょっと気が重い。
実家の庭に立つ木を遂に、伐採する。
ここまでの決断も、それなりに重く、迷いが続いた。
正直、今も。

天気予報を見たら、雨。
雨だったら、作業は延期。
と業者さんと打ち合わせしていたが、これだと延期か?

実際は、現地に行ってからの相談になりそうであるが
いずれにせよ、今週のうちに作業は進み、完了の予定。

庭を維持する仕事は本当に大変で。
親が生前その大変さを何度も口にしていたことを今に
なって、何度も思い出す。
本当は、ずっと残すことができたら、親孝行のひとつ
になるかもしれないが、協力者の高齢化や自分の
負担も考えると、そろそろ・・・の決断の時期。

とくにハナミズキ・・・。先日来、何度も歌っていた
せいか、その木と人とのかかわり、想いがあふれて
罪悪感も生まれる。
一方、ある村で山に立つ木には神聖な存在であるから
失くしてはいけない・・と大切に守り続けている人
がおられるという事例を見ると、木というのは、
本当に「生き物」である。しかも、人とともに生きる
自然界の代表選手。

私が帰省するたびに、この木たちも迎えてくれていた。
でも、いつか終わらなければならない。
後継者がいない場合は、とくに速めに手を打たねば。

そんなことが、ひとつふたつ・・・増えてくる。
人生の秋。

今日は雨で、作業が延期になったら、いいな。と
ちょっと思いながら、でも覚悟をもって。

「ごめんね。」と木に詫びる。でも、違う。
「これまで、ありがとうね。」にしたい。
両親の暮らしを40年見守ってくれて、
ありがとう。
それでいい。

これからは、紫陽花や藤や・・・小さな木、花と
ともに・・・。
できることで、やれることで、また新たな楽しみを。



カテゴリー: Essay (Word) | 「ごめんね」を「ありがとう」に。 はコメントを受け付けていません

スポットライトを浴び、アカペラ

自作の曲が、音大OGたちによる、亡き友に捧げる追悼コンサー
トのフィナーレで演奏された。
本番翌日、その報告をいただいた。

一足先に旅立ってしまった友への思いを込めての同級生の企画
出演によるコンサート。卒業して40年ほど経つ、ひとつの同窓
会でもある。

その発起人でもある、日ごろよりお世話になっている声楽家の
方が、今年の3月に私の演奏を聴いて、
「『歌のブーケをあなたに』・・を自分たちのコンサートで歌わ
せていただいてもいいかしら」とご相談をいただき、もちろん
歓迎。
そして楽譜を用意し、提供させていただいた。

でも、この秋の大雨で、関東在住の友の伴奏の練習が間に合わ
ないので、残念ながら今回は演奏を諦めようか・・・との話を
聞いた際に、なんとももったいない感じがした。

「伴奏はなくてもいいと思うので、せっかくなのでアカペラで
歌ったらいかがですか?それでも十分いける曲だと思います」
と提案してみた。すると、反応が変わった。
結果、今回は伴奏なしのアカペラで演奏されることになった。

本番では、世界の名曲、懐かしいレパートリーを皆さんで演奏
したあと、コンサートの最後に歌われた「歌のブーケをあなた
に」。

会場の照明を落として、スポットライトを当ててのアカペラ。
想像するだけでも、コンサートのフィナーレにふさわしい演
出。

「演奏中、出演者もお客様も泣いておられました。
わたしも最後の方は涙声になってしまいましたが、歌が上に
届いたと思います。歌わせていただき、本当にありがとう」
との報告にこちらも胸がいっぱいになった。

お役に立てて良かった。
自分の書いた曲が、知らないところで、自分以外の人が演奏
され、自分を知らない人たちがそれを聴き、感動されること
は、感無量。

「歌のブーケをあなたに」は、これからもそんな風にいろん
な人の悲しみに寄り添い続ける歌としてこれからも育ててい
きたい。

スポットライトのアカペラか・・・。
想像しただけでも、じんとくる。

素敵な友情がつくったコンサート。音楽は悲しみとともに
そして、心のなかに共に生きる。永遠に。忘れない・・・。

カテゴリー: Essay (Word) | スポットライトを浴び、アカペラ はコメントを受け付けていません

AIにも休息を?

この1週間をふりかえる。PHP問題で多くの企業が影響を受けている。
振り回されている。
周囲も自分も・・・。対応したからといって、これで終わりではない。
ここから始まりだったら?と思ってしまう。
また情報漏洩にドキドキしながら、日々を過ごしている。

個人情報を出すことへのリスクを改めて考えざるを得ない状況。
PRしなければ仕事にならない組織、人にとって、必要な情報は
公開してきているので、今、そのこと自体に戸惑いを感じる。
少し大げさになるが、何事にもリスクはある。それが前提。

AIがいたるところで休みなく活躍しているため、情報がつながり、
公開され、ググれば簡単に手に入るようになっている。
そこまで出してくれなくてもいい。と思うことまで、出てくる。
改めて怖いと思う。

人間が休みを取っている間にも、AIが働き続け、どんどん
進化して予想以上の情報も吐き出す。
ちょっとブレーキをかけたい心境だ。

AIが人の気持ちを考えて行動してくれたらよいが
それは難しい。

せめて、人間が休む時間、休む時ぐらい、AIも休んでくれないかな。
真剣に思う。

ちょっとスピードが速すぎて、人間が置いていかれている。
そんなものは、そんなことは求めていない。

もっと静かに ゆっくり過ごしたい。せめて頭の中は・・・。
しっかり考えたい。

と考えつつ、あまり気にしすぎても事態は変わらない。
少し、大らかな気持ちで、ドーンと構えることも必要かも。
ということで、
久しぶりにバラの花を飾ってみる。
心を休めるひとときを。

今日はその仕事をしている若者にも会う。
AIとの共生について、彼らの意見も聞いてみようと
思うが、
心穏やかに、振り回されずに、
美しい時間を育みたい・・・。


カテゴリー: Essay (Word) | AIにも休息を? はコメントを受け付けていません

変わらぬ年齢のまま。

若い頃、大変お世話になった方が亡くなって、もう30年。
もう、そんなに経ったのかとしみじみ・・・。

最近聴いた曲。今は亡き愛する人との思い出を
辿った曲。そこに「時は形のない生き物・・・」と
いう歌詞があり、深く納得、そして感動した。

時はいつも流れながら、ある瞬間、その時に
戻ることもできる、消そうとしても消せない、
自分の中に生き続けている。
不思議な存在、まさにイキモノである・・。

話を戻すが、お世話になった方は亡くなって
30年経っても、年は取らず、30年前のままの
年齢だ。だから、いつの間にか私はその年を
越えてしまった。

そして、両親たちもあの日から、もう年をとらない。
ずっと同じ年齢のままだ。
自分だけが、そこにどんどん近づいていく。

年を重ねるということは生きているということであり、
時を重ね、終わりに向かっているということでもある。

そして、人の命日とは、
もうここから、年はとりませんよ。
という、その姿を見ることのできない、新たな命の誕生日
なのかもしれない。

そんな風に命日という記念日を自分なりに
解釈してみたら、悲しさが少し和らぐような、
もっと悲しくなるような・・・。

生きていると、先に旅立った人たちの年齢に追いつき、
そしていつか追い越すこともある・・・。

そして、その先人を思い出す瞬間は、自分も昔の年齢に
戻る。
そんなとき、あの頃に戻りたいなと思うのである。
今日も、そう思っている。
ちょっとだけ20代の頃の自分に戻りたいな・・と。


カテゴリー: Essay (Word) | 変わらぬ年齢のまま。 はコメントを受け付けていません

挑戦を楽しもう!

あるチェーンの集いに参加させていただいた。3年に一度、全国から
関係者が一堂に会し、ともに過ごす大イベント。
ともに支え合う仲間の同窓会であり、未来への決起集会のような意味合い
もある。
今回、そのなかで、「挑戦を楽しもう!」というテーマがあり、とても
共感した。
挑戦する・・というと、どうしても肩に力が入った緊張状態をイメージ
しやすいが、そうではなく、挑戦は楽しいよ!楽しめるよ!という話。
大きな挑戦でなく、身近なところで、気づいた小さなことからでよい。
これをこう工夫したらもっとよくなるのでは。と思い立ち、やり方を変えてみる。
これまでやったことがないけれど、ちょっとやってみようか。ということも
立派な挑戦である、やってみることを躊躇しないことが大切。
これまでと違う新しいことを始める。工夫してみる。新たな自分に出会う。

こんなことできるかな?そこからはじめるのもよし。
できる自分をイメージすれば、必ずできるはず。
また、挑戦した自分がもっと好きになるかもしれない。

小さな挑戦が成功すると、もっと挑戦したくなるはず。
年齢を越えて、挑戦を楽しみたい。
結果よりも、やってみることに意味がある。
不安な時代だと嘆くよりも、まずはやってみようか!と
前を向く方が幸せだ。

挑戦を楽しもう!
いいフレーズだと思う。今日から自分も実践すると同時に
周囲にも伝えていきたい。

肩の力を抜いて、前を向いて、新しい今日を始めよう!


カテゴリー: Essay (Word) | 挑戦を楽しもう! はコメントを受け付けていません

インフォデミックに注意!

パンデミックと言う言葉は、コロナ禍でよく目に、耳にした。
最近はあまり聞かなくなった。
ギリシア語でPandemia(すべての人)にepidemic(広がる)という
意味の言葉の造語だとのこと。
確かに、世界中の多くの人が、コロナウイルスに感染した。

パンデミックと言う言葉のインパクトが、超非日常の怖さ
をかきたてた。
あれから数年、
今、マスクなしで生きられていることに幸せを感じる。

と思ったら今度は情報の世界的な感染病。
正確か間違っているかわからない情報がどんどん拡散していく状態を
指すのだそうで・・・インフォデミック。
毎日送られてくるメールも用心してチェックし続けているが、
これは本来の姿だろうか?
いつの間にか、情報への懐疑心、猜疑心が根底にあり、信頼できる
相手からのものでなければ受け取らない。
一方、さまざまな個人情報の提供への恐怖心も募る。
AIの登場は、良い面ももちろんあるけれど、世界を破壊に向けて
背中を押しているのではないかと感じることもある。

情報との付き合い方が、これまで以上に注意が必要となった。

やはり、顔の見える、名前のわかるコミュニケーションが安心だ。
見える人、手が届く人との関係づくりをまずは大切にしたい。
ゴミのような情報に紛れこんで、自分がこれまで積み重ねてきた
人生を台無しにはしたくない。
テクノロジーとの向きあい方。
情報の受け取り方への注意はもちろんのこと、出し方も気をつけねば。

世界が急速に変わりつつある。
情報から我が身を、会社を、街を守る。

人災としての情報。
温暖化と同じく、人間にとっての脅威。
すべて身から出た錆であろう・・・。

インフォデミック。
情報にマスクが必要な時代。
21世紀になって四半世紀、
何か新たな局面に向かっているような・・・。
とにかく慎重に、しっかり世界を見て、より確かな道を
求めていくこと。
情報は、「情報源」を意識して入手すること。

毎日緊張が続いている。




カテゴリー: Essay (Word) | インフォデミックに注意! はコメントを受け付けていません

学ぶことばかり。

「くまさん」の愛称で知られた、篠原勝之さんのことを改めて知った。
あいにく、今年の春亡くなられたが、ああ、もっと早く知っておけば
よかったと今、改めて思っている。
最近、後になってその存在を改めて知り、悔いることも多い。

職業は「ゲージツ家」ということになっているが、芸術家ではない
ところが、くまさんらしいのだろう。
目線がどこまでいっても平な方だったのだと。そこから尊敬する。

「ゲージツ家」というのは職業ではなく、生き方のスタイルだそうだ。
生きている間、ほとんどが芸術に関わっているから、職業を越えている
まさに芸術が生きている、という感じか。
この生き様こそが、真の芸術家なのだろう。
幼少の頃の周囲に抱いた違和感という点も、共感を覚えた。

私も職業は‥と聞かれて、困ることがある。どこを指せばいいのか?
どこを切り取ればよいのか?どこまでが職業なのか?と思うからだ。
便宜上いろいろ答えてきたけれど、生きることが仕事みたいに思っている
ため、職業は?と聞かれると、実は答えが難しい。
だから、くまさんの考え方は、とても共感するのだ。
お会いして、作品を拝見し、お話しもしてみたかったお一人だ。

また、最近亡くなられた村上龍さんのことを称えていたあるジャーナリストの
メッセージの中で、心に残った言葉がある。
「作家は死んでも、作品が残る。」

そのとおり、音楽家も画家も同じ。作品を生んだ人は亡くなってもその人
のメッセージを受け取ることができる。
作品がある限り、その人の存在は永遠である。
作家も芸術家と同じだ。

最近、尊敬する人たちが、見えなくなって寂しい限りであるが
その分、学びも増えている。
なかなか生前ではわからないこともある。
皮肉なことであるけれど。

こうやって書いたあと、尊敬する政治家 福田康夫さんも・・・。
本当にいてほしい人が、どんどん・・・。
この夏最後に見たインタビューから、日本への憂い、心配と
アドバイスを思い出す。
日本が平和であり続けるために、関係づくりこそが重要。
これも大きな学びだ。

心からご冥福をお祈りする。


カテゴリー: Essay (Word) | 学ぶことばかり。 はコメントを受け付けていません